不思議体験

2017年11月30日



以下は ちょうど10年前、2008年6月4日と6月5日に講師が体験したことです。

当時ネットに残した日記ですが、こちらに転載しました。

10年経って読み返してみると、バカっぽい文体が恥ずかしいですが、当時の興奮が正直に現れているので原文のままにしました。

写真は講師撮影 フランス アルル


さっき、仕事が終わって山口市から帰る70分のドライブ中にとても不思議なことが起きた。

俺はもともと少々おおげさなところがあるって言われたりしたことがあるし、自分でもその自覚はあったりもするんで少し冷静さをもって書こうとは思うけれど・・・

でも、ぶっ飛んだ!!!

マジ、ぶっ飛んだ!!!

俺は親友のK君によく、ぶっ飛んでるって言われるが(俺に言わせりゃ、彼ほどには俺はぶっ飛んでいないと思っている) でも今夜は「うわぁ、俺、やっぱぶっ飛んでるんかな?」って思った。

先に言っとくけど、俺はドラッグはしないし今夜も酒すら飲んでいないんで、いたってナチュラルでした。

何が起きたかって言うと、

1)さっき深夜12時半ぐらいに、退屈な、週に二日も往復通う道をいつも通り運転中に、「今、ここ、この瞬間」ってやつを「楽しいな」って思えんかな?って考えた。 最近わりとポジティブな気持ちで過ごせているんで、「そのうち」けっこういろんなことが良い方向に行くかもな、なんて考えていたのだが「そのうち」とかじゃなくて、今、ここ、この瞬間はどうだろう?って思ってみた。

2)フロントガラスの目の前の景色が流れて行くことをジェットコースターみたいで楽しいな、とか、空を飛んでるみたいでスゲェな、とか思えんかなってやってみた。 そんなふうに景色を感じてみよう、と、試みた。 すると、この、自分の視点がどんどん前に進んでいくという現象はすごいことだと思えてきて、わくわくしてスリルがあり驚くべき感覚を味わっている自分に気づいた。

3)そしたら・・・突然・・・本、当、に、す、ご、い、と思った・・・

「俺が、ものを見てる」って何!?

「俺が景色を見てる」って何!?

「トンネルの天井の黄色っぽい光がわ~、って流れて行く、・・・のが見えてる」って何!?

「街灯の明かりが、赤とか黄色とかオレンジとか、看板の青い色が見える・・・」って何!? 「そういうのをきれいやなあって感じる・・・」って何!?

俺っていったい何者なんか、そんなことは相変わらずわからんけれど、

どこから来てどこへ行くのか、

「生まれた」ってなんなのか、

「死ぬ」ってなんなのか、

神様っているのか、

心ってなんなのか、

そういうことはなにひとつわからんままだけど、

生きている っていうこの現象は

理屈抜きに・・・すごい・・・

とてつもなく・・・ すごい・・・

すごく驚いて、

すごく楽しくなって、

すごく興奮して、

すごく感動して、

叫んでみた 『ヒュ~!! フ~ッ!!」

歓びがあふれて笑えてきた「ハッハッハッハハハ!!!」

すべてが新鮮で、美しく特別なものに見えた。

夜中の暗闇にヘッドライトの周辺にぼんやりシルエットが見える山々や木々、 平凡な電柱や家々などの建物、信号機の赤、緑、ガラスにぶつかり飛び散る雨粒に反射する様々な色彩。

す・・・ご・・・い・・・ きれい・・・

そのうち・・・唐突に・・・

今までの人生で俺が体験してきた(自分自身の直接的、または他人の体験を聞いた間接的なもの、本で読んだものなども含めて)すべてのぬくもりとか優しさとか愛情とかの全体的な総体的なイメージが感覚としてよみがえった、というか包まれたような気がした。

じわ~って心があたたかくなっていった。

そのあとすぐに、今まで体験した自分自身の、そして、世界中の人々が経験している(と俺が思っている)悲しみや苦しみ痛み絶望なんかの総体的なイメージが浮かんできた。

心が、嬉しさ、悲しさと、寂しさと、歓びと、あたたかさで、とても大きく動いて涙があふれてきた。

いつのまにかやっぱりあたたかくてうれしい大きな歓びの涙がほほをつたっていた。

しばらく、泣いた。

その時にiPodで聞いていたジャズも今までに飽きるほど聴いていた、わりと平凡なアルバムだったのに、その同じピアノの音がぜんぜん違って聴こえた。

映画のこれ以上ないぐらいにドラマティックなシーンの最高の演出に成功した最良の選択のサウンドトラックみたいだった。

あ~、俺もいつか自分の演奏するピアノで誰かに「気持ちいいね~」って言われるようになりたいな、とも思った。

何十年後にそういうことが実現してもしなくてもいいけれど・・・

そういうことが楽しみだと思うのっていいな。 一生懸命練習しよう。

「生きてる」 って何!? 心って? 意識って何?

その問い自体は今まで何度も何千回も考えたし、そういう問いと向き合うことは、今までの俺の人生の核心だったと思う。 もちろん答えなんて見つけてはないし、それを見つけられないということはいつも不思議なだけではなく、不安だったり怖かったりすることが多かった。

でも、今夜の感覚は初めてだった。

「生きてる」って何!?

わからんけどすごいわ、 「生きてる」ってすごい・・・

単純にすごくて単純におどろきで、そしてそのことは楽しいことだ。

「私」って何?

「私」ってのが存在してるってことが、単純にすごくて、おどろきで、そしてそのことは素晴らしいことだ。

「世界」が存在してるってだけで・・・ ほんとにすごい。

深夜のセルフスタンドで価格が高沸するガソリンを入れながら、俺は頭が狂った人みたいに声を出して笑っていた。

「ハッハッハ~ハハハハハハハ~ハハ」

興奮冷めやらぬうちに自分の紙の日記帳に長々と詳細を書いて、そのあとこのブログにも書いてみました。 ブラインドタッチはできんからすごい時間がかかった(笑) 夜が明けた~。 ねむ・・・

今夜の体験をしたことは、今までに出会って俺の心を動かしてくれた本当にたくさんの人々がいなかったらあり得なかった。 愛を教えてくれた昔の恋人や、いつも励ましてくれる親友達や、家族扱いしてくれている血のつながっていない家族や、遠くはなれている血のつながった家族や、あたらしい友人達や、俺の生徒さん達や、世界のみんなみんなに、深い感謝の気持ちがあります。

なんだかめちゃくちゃ良い体験をしたなあ。 ラッキーっすね俺!!!

2008年6月4日

写真は講師撮影 ノルウェー



( 続いて以下は2008年6月15日の日記です )



前回の日記に書いた不思議な体験をしてから10日ぐらい経った。

あの感覚は、潮が引くように日ごとに徐々に落ち着いていった。

あの体験の翌日はどうだったかというと・・・

昼頃に目覚めて・・・ もう昨日の感覚は無くなってるやろうなぁって思いつつ・・・

部屋でハンガーがカベにぶら下がっているのを見て、そんなモノが大真面目な顔をしてあんな形でぶら下がっているのを見て、なんだこりゃ!? こういう「モノが見えている」って現象は何なんだろう? 不思議だし、可笑しい。

声を出して笑ってしまった。 わお!夢じゃなかった!!まだ続いとるわ!!!

仕事に行く道、晴れ渡った昼の光で緑が映える山の中の農道を運転していて、鮮やかな黄色い花が道路の両脇の山の斜面に咲いているのを見たら「ハッ」とさせられた。 胸を打つ美しさなのだ。 そのほかの花にも、どの花にも美しくて泣きたくなるような感動を持った。 また他の場所で、いろいろな青のバリエーションや薄い黄色や桃色などのパステルカラーの花々が咲いているのを見たときには、 女性に恋に落ちるような感覚を味わった!!! むねがせつなくキュンとしてときめくのだ。 これには驚いた。 そのうちまわりのすべての色彩(特に俺の心は色彩に反応した)に対して素晴らしいと感じ、その他の景色や山々、木々、空、雲、風など、歩いているおじいさんやすれ違う車など、すばらしいと感じた。 幸せな気持ちに包まれて気分が最高に良くなって、至福感と恍惚感に陶酔して完全に脱力した笑顔が自然にわき上がる状態だ。 何もかもが素晴らしくて幸せすぎる。 俺のとても尊敬する友人K君が、波乗りしてるときなんかに(またはそれ以外何をしてるときでも笑)年がら年中言っているセリフ「俺、こんなに幸せで良いのかなぁぁぁ」を思いだした。 事故をしないように気を引き締めて運転をしようと真面目に思ったぐらいの不思議な精神状態だった。

自分でノートの日記から今、PCでブログに書き起こしていて、 euphoria 多幸症というのはこういう感じだろうか? そういう一種の精神疾患(ぷっつん状態)(おかしくなった)なんじゃないかって思うぐらい、すごいなこれ、って思う。 感じたことを忠実に書いておいた日記だけど、読み返して自分でも本当かよ?って思うぐらいだ。 10日経った今ではずいぶん普通になった。 病気としてのeuphoriaユーフォリアっていうのは根拠のない幸福感に包まれるらしいが、俺の場合は根拠はなくもない。

自分の存在や世界の存在に驚くことをはじめて体験してそれを喜んでいるんだと思う。

理屈のいらない感覚なのだが、あえて理屈にしてみると、例えば、超一流のバイオリニストの演奏を聴き、何万種類の音の羽が自分の体のまわりを舞うような音楽的感動を味わった時、「この人はなんて素晴らしい芸術家なんだ・・・」って思うシーンで、逆に、「こんなすごい感覚を味わっている”自分”ってなんなんだ・・・」 「こんな鳥肌が立つ体験をしている、この”心”っていう現象はなんなんだ?」この演奏家が素晴らしいっていうのと同時に、それを体験できている自分自身というやつも素晴らしい。 というより、それ以前に、そんな現象(”わたし”や”世界”)が本当に現実に

「そ、ん、ざ、い、し、て、い、る」

ってことが、すごい。

少しずつ普通の感覚に戻ってきて、ここ何日かはまったく今まで通りに戻ったようだ。 それでも、ふと、道に生えているススキ?(なんか白いやつ)に心を奪われたり、うるさい車やガラの悪い車なんかをみても、ちょっとうざい人ごみを見ても、ああ、世界はエネルギーに満ちているなあ・・・とか、動きがあるにぎやかな世界やなあ・・・とか、原子とか分子とかが飛び回っているところを想像してしまう。 歌ったり踊ったり泣いたり怒ったり笑ったり人は心を動かして動かされて、水は流れて流されて、地球は回り回されて、この世界はすごいのだ。

俺たちはみんな宇宙そのものなんだと思う。 自分と他人の境界も生物と非生物の境界もあるともいえるし無いともいえる。 本当はみんながひとつで宇宙として時間的にも永遠に、空間的にも無限に存在しているんだと思う。

人はだれでも「自分が存在しているということ」を深くみつめるだけで、「宇宙としての自分」の絶対的な安心感や愛を心に持てるんじゃないだろうか。

今、この「身体と心」をまとった人間としての「わたし」という宇宙は、

人生という「人間祭り」のまっただなかにある。

「煩悩踊り」をおどり、おどらされている。

「わたし」はビッグバン以来100億年存在してきた。いつでも、どこにでも。

いま、ここでも、「わたし」という現象を生きよう。

未来の時を希望の光がどこまでも照らしてくれていると感じられる朝もある。

虚空の絶望の中で呼吸は止まり狂気の中で、殺し殺される昼もある。

傷つけ傷つけられ孤独の砂漠の暗闇に歩みが止まり自ら命を絶つ夜もある。

すべてを肯定する永遠の愛を信じることができる夜明けもある。

宇宙のキャンバスにはいろんな色がある。

歓びに高揚しふるえる心にあたたかく染み込むような柔らかい色もある。

正視できないような残酷な暗黒の色もある。

でも、全体としての絵は、ほんとうに素敵だ。

わたしのこころにはひとつぶの愛さえ無いと思い込んだとしても、

もし、愛という言葉を語ることができるのならば、

それはわたしのなかに愛があるということだ。

わたしはみにくいと思い込んだとしても、

ひとつでも美しいものを知っているのならば、

それはわたしが美しいということだ。

愛や美しさだけではない。

それ以上・・・おそらく「わたし」の言葉では語れない素晴らしいもの・・・

わたしは「すべて」として・・・

存・在・し・て・い・る

わたしは奇跡的にドラマティックな現象を生きていこう。

人間祭りを楽しもう。

煩悩踊りをおどろう。

また普通に、わけのわからんこの世界で、これまで通りの生活を続けている俺だけど、以前よりも「愛」とか「感謝」とかいう言葉が好きになっている。

以前より世界が好きになっている気がする。

ただそれだけ・・

2008年6月15日


( 10年経った2017年11月現在振り返ると、結局、これ以降は同じ体験も無く、講師の生活は基本的に何も変わっていませんが、それでもやはり、異次元空間から宇宙人が出てきたり、キリストが現代に生まれ変わったりしてくれなくても、自分が「今」、「ここ」に存在していること自体が奇跡だと思いながら日々を大切に生きるようになりました )