生きていてくれて本当に嬉しかった

2011年5月11日





2011年3月11日 宮城県を中心とした東北地方の広い範囲がマグニチュード9.0の地震に襲われた。

僕の母親は、仙台市の近くの小さな街に住んでいた。

妹夫婦とその子供たち、そしてその他大勢の親戚達もだ。 当初、被災地への連絡は、家の電話もケイタイも全く通じないまま、壊滅的な状況を伝えるテレビの報道に不安は大きくなるばかりだった。

家族のみんなが、なんとかどこかへ避難していてほしいと願いながら、ありとあらゆる手段を使い現地の様子を探ろうと試みた。 Twitter や mixiなどのソーシャルメディアによる情報収集で、どうやら僕の家族の住む地域の被害は比較的軽い方であるということが少しずつわかってきた。 しかし本人達にはまるで連絡がとれないままで、きっと無事だと信じてはいるものの、時折頭をよぎる絶望的な想像を止めることができない。 僕自身が直接現地へ向かえるように、仕事の休みを手配し終えたあとで、いとこの一人と連絡が取れて家族の無事を知った。

親戚達も家族も、僕の近い人間は命をとりとめた。 家や車を流されたりしたケースはもちろんあったけれど、親族はみんな無事に生き延びた。 家にダメージを受けた母親と妹、そして双子の子供たちが長門市の僕の家に疎開してきた。 「道に停まっている車が目の前でトランポリンのようにポンポン跳ねていた」とか「近所の家が折り紙の家のようにグニャグニャにパタパタと曲がっていた」などという光景の中で逃げ惑う経験をした妹たちに、あまり当時のことを詳しくは聞いていないままだ。

基本的に旅行気分のように明るく楽しそうにしている4才の双子たちも、夜中に津波の悪夢でうなされたりと、潜在意識レベルでのトラウマは残っているのかもしれない。 1ヶ月ぐらい長門の家で同居した彼らだが、先日山口市の県営住宅の方に入居できることになり、家財道具のない簡単な引っ越しをした。 母親や妹にとっては安全な場所で眠れることにほっとしているようだが、子供たちは父親といっしょでないことがつらい。 被災した街に単身残り復興の仕事に追われる彼らの父親を恋しがり手紙を書いているようだ。 「パパの気持ちがいっぱいで眠れないよ」と素直な子供の言葉で寂しがっていた。

日本中の国民がそうであるように、僕も今回の大震災によってたくさんのことを考えさせられている。 そのことを書き始めるにはまだ整理できていないことが多すぎる。 それとは別に、とても大きなことに気づかされた。 僕は、母親や妹が死んでしまったかもしれないと思ったとき、どれだけ彼らのことを大切に想っているか、生まれて初めて実感したのだ。 普段は、「自分はとても冷たい人間なんじゃないだろうか」と思うぐらい家族のことをあまり考えないし、彼らの誕生日も母の日もこちらから連絡をすることなど皆無と言う状態でも平気だったのだ。 そんな僕が、あんなに絶望を感じるなんて。 母が、妹が生きていてくれて本当に嬉しかった。 今言えることはそれだけだ。 ところで、震災直後から、母や妹、そして二人の子供たちにいろんな形でたくさんの支援をしてくださった方々がいました。 彼らに笑顔と元気をもたらしてくださった皆様に心から感謝しています。 本当にありがとうございました。