講師になるまでの物語3









      命の危険も感じずに馬鹿げたことができる

        ということを「青春」というのであれば、

        僕らはまさに青春の真っただ中にいた。 






この写真が僕らの愛車Dodge社のOmni。 バンパーはぐにゃぐにゃにひしゃげてて、テールランプも割れてるアメ車。 日本車にたとえればおじいさんのスターレット。 5万円足らずで買ったこのポンコツに命を預けて、何日間も一台も他の車とすれ違わず、途中に民家も町も皆無の泥道、雪道、氷道を、山脈を越え、 片道1000km弱ぐらいの行程を北極まで行ってきた。 四駆じゃないしタイヤもノーマル。 予備のガソリンとテントぐらいしか装備はなかった。 








オーロラを見にアラスカへ3ヶ月 

(冬期の北極海へのドライブ)



 


 帰国後は自動車会社の期間従業員等をして次の旅行の資金を貯める。

いすゞ自動車での仕事で知り合った北海道旭川出身のハーレー乗りの天才メカニックといっしょにアラスカへ3ヶ月の旅行。  2月から5月までの冬期に滞在。  電話帳の不動産屋に電話しまくり短期で貸してくれる物件をみつける。   町外れの雪深く埋もれた森の中の、水道のない丸太小屋を月に2万円で借りる。 車がない生活を2ヶ月。  

 近所の人に15分ヒッチハイクさせてもらい、町でシャワーを浴びたり水や食料を買って戻る生活。  

 午後遅くに起きて食事、食後は裏山に歩いてスノーボードをしに行く。  夜になったらストーブで身体を暖めてかなり厚着をして、ビールを持って(あまり飲めないのだが)外にオーロラを見に出る。    3日に一度ははっきりとしたオーロラが観測できる。

 超低温のため澄み切った感じのする森の中、ふいに木がひらけた所から見上げると針葉樹のシルエットの上にグリーンやピンクのオーロラがみえる。  カーテン状、定規、たまねぎ、蛇などいろいろな形がある。    あるものは静止しており、あるものは激しく生き物のように動き回っている。 

 フェアバンクスという町に滞在したのだが、そこにあるアラスカ大学はオーロラの研究の世界的権威といわれる日本人の赤祖父教授が率いる先端のオーロラ研究チームの基地であった。   その当時、彼らはオーロラを反射素材としてパラボラアンテナのように使い、通信技術に応用できないかという研究をしていた。    そのプロジェクトを取材に来たメディア関係の人間とたまたま知り合い、取材に同行させてもらって話を聞く機会に恵まれたのが興味深かった。    

 オーロラの発光の仕組みはこうだ。 太陽が爆発燃焼するときの炎の形のままに、太陽から地球に向かって飛んでくる原子や分子(太陽風と呼ばれる)は地球の大気圏内にある原子や分子に衝突する。  そのときの衝突エネルギーが、ネオン管のガスの中で電子が衝突して発光するのと同じような原理で発光するのだという。    アラスカやノルウェーなど北欧の国々の一部でのみはっきりとしたオーロラが観測される理由は、地球はそれ自体が磁力を持っているので、北極と南極には磁石のN極とS極のように磁力線が一番密になっている。 そのためその部分に太陽風の中の原子分子が引き寄せられるので、極地方での上空の衝突が一番激しいというわけだ。    太陽風の吹き方(つまりは太陽の燃焼のしかた)によって地球でのオーロラの様子が変わってくるのだ。 


 帰国1ヵ月前のある日、相棒と地図を眺めていた時に、北極海を見に行こうという計画を突如思いつく。    500ドル(5万円以下)のボロボロのダッジの中古車を購入、車の下にもぐったりボンネットを開けたりして天才メカニックの相棒が二週間かけて各所を修理、コンディションは最高になる。    

 アラスカの南は港町アンカレッジから、北は北極海の油田プルドーベイまで1300キロにわたり原油を輸送するアラスカパイプライン沿いに、パイプラインのメンテナンス用のマンモスのような巨大なトラックのみが通るための未舗装の道がある。   その道路のようなものを我々のポンコツ車で800キロあまり北上しようという計画はあらゆる面から考えて無謀としか言いようのないものだった。  

 第一に我々の町フェアバンクス以北およそ800キロは一般の車両は立ち入り禁止区域であり、特に冬期はメンテナンスのトラックが不定期で通ること以外では普段は何日も何週間も一台も車が通ることはない。  

 当然その区間にはガソリンスタンドやあらゆる店や民家や町などは皆無で、800キロの間には荒々しい雪山や雪原といった大自然と二カ所だけメンテナンストラックの基地のようなものがあるだけだった。  

 自分たちでスペアタイヤ、ガソリン、食料を積んで行くとはいえ、途中で車にトラブルがあった場合助けを呼ぶ手段はなく(当時は携帯電話などなかったし、あったとしても現在でも北極エリアが通話可能圏内だとは思えないが)夜間はマイナス25度にもなろうかという状況でもし車が壊れればそれは直接死を意味するものだった。

 近所の人々はもともとアメリカ本国から隠遁生活を送ろうとやってきた世捨て人ヒッピーばかりだったので、真剣に反対することはなかったが、テントを貸してくれながらもお前らの無謀さは信じられないよ、と、あきれていた。  

 町外れにある看板に「ここより一般車両進入禁止」という看板を越え、除雪されていた町のアスファルトの道路はすぐに雪に覆われた土の道路にかわった。  

 氷や雪の路面の上をタイヤをパンクさせないようにゆっくりと北上をはじめた。   万が一逮捕でもされたら「英語は読めませんでした」とでも言おうよ、と話していた相棒も私も若かった。

 途中での白い世界ただただ広い白い世界は言葉にすることはできない。

 北極圏に入るまでに1泊したのだが、山の麓の大きくひらけた平地を選びテントを張り、カレーライスを作る。 できたてのカレーが、何スプーンかめにはもう冷たくなっていた。  歯磨きをゆっくりしていると、口をゆすごうとした時にはコップの表面に薄く氷が張っていた。(実話!!)   

 完全な静寂の中で世界の果てのような雰囲気のする極地方の白い山の上にグリーンのオーロラが無音のまま乱舞していた。  

 たくさんの巨大な生き物の手のようなオーロラの柱が視界を360度かこむ山の上から我々につかみかかるかのように揺れ蠢いていた。   

 テントの中では、自分の下に木の板を敷き詰め冷たい雪面から体温を奪われるのを軽減する。 

Tシャツの上から使い捨てカイロを10枚ぐらい貼付ける。  トレーナー2枚セーター3枚さらに防寒用ジャケットを2枚ぐらいと、もっている全ての服を着込んでふくれあがった身体を極寒地用の寝袋の二枚重ねのなかに押し込む。   寝袋のチャックを完全に閉めると、わずかに空いた顔面の部分が低温過ぎて痛いような感覚があるが、どうにか眠ることができる。

 次の日にブルックス山脈という山を越える所が最大の難所だった。 

 少しずつ高度が上がり、見渡す限り雄大な山々が白く連なっているのに見とれているうちは良かった。   徐々に雪がちらついてきて、山頂に近づいているような雰囲気になるにつれて、吹雪になってきて、視界はほぼゼロに近くなる。  

 そのうちあまりにも高度が高く酸素が薄いからか、エンジンが今にも止まりそうな不調音になる。  相棒は「こりゃ、とまったら俺たちここで死ぬよ」とえらく冷静な一言。  「頼むから止めるなよ」とつぶやく私。 

 このぐらいの危機に遭うだろうことぐらいは最初からわかっていたとは・・正直なところ言えない。  何も知らず何も考えず無知だからここまで来れたのだ。 無謀だった。   が、時間的に引き返しても途中で暗くなりそうで、そのまま山を越える方針で進んで行った。  

 道から外れて崖の下に落ちないように二人してフロントガラスに張り付くようにして、真っ白な吹雪の中の進行方向に最大限の注意をはらいながら、時速2キロぐらいで歩くより遅いようなスピードでの緊張のドライブは永遠に続くかのようだった。     

 ふっとあるとき道路がフラットになり、そして下り坂になり、はじめて生き物としての生存本能からくるとてつもない歓喜が押し寄せてきたが、夕方薄暗くなる前に山脈の反対側に降りきるまでは気は抜けなかった。     

 北極海までの最後の300キロ程度はツンドラ気候のエリアでどこまでも木が一本も生えていない。   視界がとどく限り真っ白な永久凍土の雪原だけで、夜遅くに最終地点の北極海に面した油田の町デッドホースまであとわずかというサインが出たあたりでもう一泊キャンプをした。  

 朝目覚めると、360度見渡す限り平らな氷原が延々と続いている景色は感動的だった。   町に到着すると、油田の労働者のエスキモーの人々が我々が一般装備の自家用車でこんな時期にドライブしてきたことを「日本のサムライはやっぱりクレイジーだ!!」とうれしそうに歓迎してくれて町を案内してくれた。     前日の夜に町外れでキャンプしたことを彼らに告げるとまたまたおおげさに驚いている。 「ちょっときてみろ!!」と言いながら町で唯一の食料品店の駐車場に連れて行ってくれた。   そこにはとてつもなく大きな生き物の足跡が、そこらじゅうを荒し回ったようにして残されていた。   ちょうど冬眠期が終わり、腹が減りまくったホッキョクグマやらグリズリーやらが町の近くにはたくさんいるというのだ。   「でも、どっちをみても平らな雪原で、熊が住んでそうな場所はないと思ったのに」と我々。     正解は・・・  そのあたりの熊というのは地面にお椀状に穴を掘って住んでいるとのことで、それだからこそ、少し距離を離れた所からみたら平らにしか見えないというわけだ。   運が悪ければ我々は簡単に熊たちのえさになっていたのだ。  

 帰りの旅の安全を祈ってくれるエスキモーの友人たちにお別れをして、通常は、外部からの人間はフェアバンクスから飛行機でのみ訪れるこの町を我々は再びポンコツ車であとにした。

 アラスカを離れる数日前にマッキンレー山を見ようとデナリ国立公園へ。  世界的な登山家であり冒険家の植村直己氏が登山中に帰らぬ人となった山だ。    公園と行っても人間の開発から自然を保護しているというだけで、手つかずの山々がどこまでも続くだけの全くの大自然だ。   入り口の公園警備隊に入園許可証を申請する。    登山の意志はないことと、滞在期間は当日のみの予定であるということを告げる。    長期間のキャンプや登山をする場合などは特に詳しい計画を提出する必要がある。   エリア内の人間の安全を最低限の管理や確認をしたり、万が一の場合は救出したりするのも彼らの仕事なのだ。      我々はというと・・・ やはり、ほんのごく軽く、少しだけ山に登ってみようよという話になった。    私と相棒はそれぞれ違うルートにわかれた。  二人とも登山の知識は皆無だし、靴も普通のスニーカーで服装も通常の軽装だし、ピクニックのようなのりで少し歩いてこようという話だった。   

 私が選んだルートは登山用のルートなどはなく、最初は野生のヤギやうさぎがちらほら現われたり、大角ヘラ鹿(ムース)に遭遇したり、所々雪が溶けて、土や砂利や岩肌や植物も見えたり、快晴の気持ちのよい青い空のもとにきれいな景色が楽しめるのんびりとした斜面だった。 

 そのうちこう配がきつくなり、両手をつかなくては登れないようなちょっとした崖のような斜面になってきたが、見渡す限りの雄大な景色に気分が最高に高揚して、気にするでもなく登り続けた。 

 そのうち雪がちらつきはじめたので、これはまずいな、急いで降りた方が良いなと思った。  山の知識は皆無に近いが、山の天候が変わりやすく危険だということは聞いたことがあったのだ。  

 雪は少しずつ激しくなりあっというまに(それこそ何分かのうちに)視界がゼロに近いようなホワイトアウト状態になってしまった。    足もとも不安定なまま下ることは危険だったので、横に移動するのはできそうだったので、斜面がゆるくなる場所を探そうと思い横ばいで少しずつ移動して行った。   冷静であろうとは思っても心は半ばパニック状態で、「死ぬのかな・・・」ということが頭をよぎってしまった。  

 そのうち雪がギリギリ積もるぐらいの緩い斜面がずっと下の方まで続いていそうな場所にでくわした。  この斜面なら降りることもそこまで危険はなさそうだ、との判断で少しずつ下りはじめた。  ・・・と・・・突然足を踏み外した!!   一度転んで、背中を地面についた状態で、そりのようにすごいスピードで滑り落ちて行く。 頭を打たないように両腕で頭をかこったのと、バランスを崩して跳ね上がってしまったらもっと危ないなと意識したのと、岩などがでっぱっていないことを祈ったことを覚えている。  随分長い距離をそのまま滑って落ちたあと平らな部分に出て止まった。  身体はそこら中かなりひどく打っていてどこか骨が折れているのだろうかと思ったが、少しの間ショックから立ち直るまでじっとしたのちに立ち上がってみるとたいしたことはなさそうで、服が破れた以外は打撲と擦り傷だけですんだ。 

 相棒は山には登らずそこら辺で休んでいたら雪が降り出したので心配していたという。

 アンカレッジの空港から日本へ帰る当日、一ヶ月前に500ドルで購入したポンコツ車を大きな中古自動車販売店での直接の持ち込みオークションで250ドルで売ることに成功した。   出品者が順番に並び、番号をアナウンスされたら、会場を何周か運転してちゃんと走行することなどをアピールして、最低落札希望価格を告げた後は競り落とされるのを待つ仕組みだ。
















オーロラの撮影は講師が改造した子供用おもちゃカメラ。おもちゃカメラのシャッターとダイアフラムを取り除いただけだが、レンズキャップを手で取り外すとフィルムへの感光が始まる30秒とかの長さを数えてまたカバーをつけるという原始的な仕組み。オーロラの撮影ができる露出時間調整付きのカメラは最低でも5万円近くしたので、幼い頃に祖父にもらったカメラを思いつきでダメもとの改造してみたら、ちゃんと写せたのには驚いたし嬉しかった。現地の街の粗大ごみ置き場で拾った松葉杖を壊して組み直して、カメラ固定用の三脚も作ったのだが、これも効いていた。(ISO800だったかフィルム感度もあげた)




























































































































































































































ベーリング海峡の向こうはロシア 




















水道なしのただの丸太小屋に2ヶ月住んだ


















































講師は右側
















         

この先の山脈でホワイトアウトすると知っていたら引き返していただろう。


















この辺りからブルックス山脈の入り口














































































遠くの明かりは北極海に面した油田の街「プルドーベイ」 

      その人口数百人はすべて油田の労働者